ウチナーンチュならここで、すでに興奮せざるをえない。今から200年も昔の話が一気に、身近に感じるのだ。
[ 賀数仁然(FECオフィス・ラジオパーソナリティ) / 2014.02 ]
1986年7月発行
ベイジル・ホール 著
春名徹 訳
岩波書店 刊
文庫/
385ページ
940円(税抜)
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朝鮮・琉球航海記
―1816年アマースト使節団とともに
ベイジル・ホール 著
ペリー来航が引き金となり、日本と琉球が世替わりを迎えることとなった19世紀。その予兆はすでに37年前にあった。 それは中国の訪問期間を利用して、琉球にやってきたイギリスの使者であったといえる。アルセスト号・ライラ号に乗り込み、琉球を訪れたイギリス人の記録。元々は日記である。
日記ながら、西洋人から見た琉球が細かく記録されていて、興味深い。とくに首里王府の交渉役、メデーラの振る舞いが面白すぎる。
彼は部下のアンニャを連れて、交渉に当たる。記述ではメデーラとアンニャだが…真栄平と安仁屋である。ウチナーンチュならここで、すでに興奮せざるをえない。今から200年も昔の話が一気に、身近に感じるのだ。
この二人、王府の通訳官のようだが、イギリス側には身分を隠したまま任務に当たる。ベイジル・ホールによれば、「彼らは常にノートブックを持ち歩き、習った単語はなんでもメモ」していたようだ。そして、イギリス船が滞在していた40日の間に、英語をマスターしてしまう。
いくら通訳官で言語取得の才があったとしても、テーブルマナーまで身に着けてしまうメデーラにイギリス人は目を丸くしている。
両国のためにイギリスへ留学してみないか? そんな申し出に、メデーラは「自分の父が病床であり、妻も子供もいるので、おいてはいけない。みんな泣いてしまう」と英語でかえしている。スピードラーニングもびっくりの習得法だ。
またメデーラをはじめ、琉球の人々がイギリス船で催された晩餐会に出席している。ここでシャンパンが振る舞われたが、おそらく琉球人が初めてシャンパンを口にした瞬間だろう。
宴では、琉球の酒飲みたちの、テーブル上でキセルを回して雁首が指した人が一気飲みをするというゲームも披露されている。
また、メデーラが歌いだすと、周りの者が体をくねらせながら、手を合わせ、そして離れ、波のように踊る。そして頭が肩につきそうになるまで、右に左揺らして踊ったようだ…コレってカチャーシーではないだろうか? あるいは当時はアッチャメーとか呼ばれていたかもしれない。いや、きっとそうだ。
このように、イギリス人が書いたものでも、想像力をめぐらせて、イロイロ想像しながら読み進めるのも楽しい。
人との交流だけではない。自然の描写も現在と重なる。
ベイジル・ホール達は、短い滞在期間の中で、沖縄本島周辺を探索・調査している。
運天港をポートメルヴィル(当時のイギリス海軍大臣の名前)と名付けている。しかも船を避難させ、食料を隠せる場所がたくさんある、条件の良い港を「発見した」と。
そして屋我地島との間の海峡から、湖に出たと。
湖とは羽地内海を勘違いしているのだが、パソコンでグーグルアースなどで確認しながら読み進めると、とてもたのしくなる。
19世紀というと、西洋列強がアジアに進出し、植民地拡大のための覇権争いにアジア諸国が飲み込まれていく。特にイギリスは、産業革命を背景に、巨大な力を発揮するパクス・ブルタニカの時代を迎えている。
当時の琉球は、中継貿易にも陰りが見え、幕藩体制に組み込まれる形であまりぱっとしていなかったようだ。
しかし、当時のイギリスに琉球はとても魅力的にうつったようだ。というのも最後の別れの時のバジルホールの思いがよく伝わる記述があり、少し泣ける。
やがて琉球のみならずアジア全体が列強の波に飲み込まれていくことを我々は知っている。その分何か切なさを残す記録である。